こんにちは!やっちゃんです😄
今週の主日礼拝では、願っているものをもらうためにはどうしたらいいのか、知恵の御言葉を教えてくださいましたよ~🤗
イエス様はいつも、私たちがよ~く悟れるように、譬えを使って話してくださいます。
今週は、人間の心を畑に譬えて教えてくださいました。
では、イエス様の御言葉を聞いてみましょう🐰🐰🐰
マタイによる福音書13章3~9節
『イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞くがよい」。』
ふむふむ、分かったような分からないような…🤔
教えて、イエス様!🥰笑
イエス様は、譬えで話された後、話しっぱなしで終わることなさらず、“耳のある者”、つまり、イエス様の御言葉を喜んで受け入れて行なうことができる善良な心を持つ人たちには、必ずその意味を解いてくださいました。
その解き明かしがこの後に出てきます。
マタイによる福音書13章18節
「そこで、種まきの譬を聞きなさい。 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」
イエス様の譬えは絶妙です✨
これ以上ぴったりはまる表現はない!と言えるほど、分かりやすく教えてくださるんです😀💡
いくらいい種でも、肥沃な畑に蒔いてこそ、よく成長し、実を結ぶことができます。
よくない畑にいい種をいくら蒔いても、土が硬いから根付くことができなくて、種が飛ばされていって、挙句の果てに鳥に食べられちゃったり😥
根を張ったとしても、石が邪魔して、これ以上根っこを伸ばせなくて枯れてしまったり😣
成長してく途中、茨によって日光が遮られて、枯れてしまったり…😰
結局、いい実を刈り取ることができずに終わってしまいます😭
そのように、人間の心も同じです。
いくらいい御言葉があっても、御言葉を受け取る心の土壌がよくなければ、よい行いの実を結ぶことができないんですね。
でも、誰でも渇いて荒れている自分の心に肥料を与えて、手入れをして、肥沃な畑に作ったときにいい畑になります✨
まずは、「自分の心を肥沃な畑のように作りなさい」
そのあとで御言葉の種を蒔けば、いい実を刈り取ることができます🍎
では、どうしたら、砂利の畑のような心、茨の畑のような心、雑草の畑のような心、土の質が硬い畑のような心を、肥沃な畑のような心に作ることができるのでしょう?
神様の御言葉でできます!
神様の御言葉を信じて、聞き従って生きるときに、心の畑が完全に変わります✨
御言葉で、心の砂利をすべて取り除き、茨を焼き尽くし、雑草を抜いて耕せば、肥沃な畑になります!
「よくない心の畑だとしても、続けてよくつくれば、すべてよい肥沃な畑のような心になれる」と神様はおっしゃいました。
神様は人の外見ではなく、心をご覧になります。
そして、「あなたの心をつくったとおりに祝福を与える。」とおっしゃいました。
いつも私たちに御言葉を教えてくださっている牧師先生は、10代の時、外見にものすごいコンプレックスを持っていたそうです。
どれくらいかというと、顔があまりにも不細工すぎて、自分の顔を映していた鏡を割ってしまうほど😯
そんな先生を見てイエス様は、
「顔が問題ではない。心が醜ければ顔が醜く見える」
とおっしゃったそうです。
その時から先生は一層心をよくつくるように努力されました。
また、先生はすぐにすねる性格の子だったそうです。
お母さんはそんな先生に「ぷんぷん君」とあだ名をつけて呼んだりしたそうです😂
これも神様がお母さんを通して、悪い性格を直すように、と教えてくださったことでした。
自分の性格を直すって、1日、2日ではできないことです。
先生は、神様、イエス様の御言葉どおりに行い、毎日、義をもって心を磨きました。
毎日畑を耕す農夫のように、自分が自分の心の畑を磨かないとけない、と思って。
聖書の中で、イエス様が弱い人を憐れんで助けてあげたから、乞食のような人を家に連れてきて、体を洗ってあげ、ご飯も食べさせてあげたり、
イエス様が病人のために祈って病を癒してあげたから、病気の人の家に行って手を置いて祈ってあげたりもしました。
ただイエス様が好きで、イエス様について行きたくて、イエス様がされたように行ないました。
先生のことをご覧になって、イエス様がついて行きたくなるように、自分自身を作りました。
そのように行ないつつ自分をつくったので、神様はもっと多くの御言葉の種を先生の心に蒔いてくださり、深く悟らせ、祝福もたくさん与え、人々を教える先生になりました。
まるで実をたくさん実らせた木に鳥や動物たちが集まってくるように、多くの人たちが集まってくるようになりました。
神様、イエス様に仕え、愛する生が素晴らしいものだということを、その人生を通して見せて教えてくださいました。
また、このように教えてくださいました。
「神様と聖霊様は、人間の心と行ないがつくられていてはじめて、与えるべきものを与えてくださる。だからもらうためには、つくることだ!願うものを祈っているというだけではくださらない。自分の心と行ないをつくることだ。」
実際、人は、自分の心と考えのせいで失敗します。
血気や高慢、自分中心、嫉妬や妬み、怠慢怠惰、などなど…
悪い心や考えから抜け出せなくて、悪い癖が直せなくて、結局、自分自身が苦労します。
だから考えをよくしなければならないし、神様の考えでよく選んで考えないといけないです。
「自分の心を善良につくった人は最高に大きいことをした人だ。つくれば、神様の心と一体になる。」
とおっしゃいました。
私自身、長年、御言葉を聞いてますが、実際に行なえなかったり、完全に行なうのは難しいこともしばしば💦
まだまだ自分の心が耕されてないからなんだよね~って改めて再認識しました😅
でも、「続けてやれば肥沃な畑のようになる!」とおっしゃったので、希望を持って、毎日御言葉の鍬で耕していきたいです🌱
今週の御言葉を聞いて…
神様は私たちにたくさん祝福を与えたくて、ものすごく準備してくださっているんだろうな。
でも、ただでは大きな祝福を受けることができないから、私たちも準備をしないといけない。
心を肥沃な畑のように作ってこそ、神様がくださるものの価値を深く悟って、愛と感謝と喜びで受け取って、永遠に奪われない。
祝福が手におえるように自分の心を作らないといけない。
そうしてこそ、神様が労苦して種を蒔いた甲斐があるんじゃないか、と感じました🙂
私たちともっと通じ合いひとつの心になりたいと、神様が続けて貴重な御言葉の種を私たちの心に蒔いてくださっているから、いつも感謝して、神様の心にかなうように自分を作っていきたいです🍎