こんにちは!やっちゃんです😊
今週の主日礼拝では、
「最高に信仰生活をよくする人」ってどんな人なのか?
神様が教えてくださいました🙌
うちら信仰を持つ人たちにとって“耳ダンボ👂🐘”なタイトルです笑!
(毎週、耳ダンボなんですけどね)
“信仰”によって賞賛され、聖書に記録されたある一人の女性がいます。
それが、今週の御言葉の主人公、“サマリヤの女”です。
本題に入る前に…
聖書には“サマリヤ”という地名がよく登場します。
では、“サマリヤ”ってどのような地域だったのでしょう?
イスラエル王国時代から、ざっくり歴史をたどってみま~す🧐
(詳しくは旧約聖書の列王記を読んでみてね!)
イスラエル王国の三代目の王様ソロモンは、父親ダビデのように知恵と名声と富を享受しました。
しかし時が経つにつれ、神様がくださった祝福を持って享楽を追い求め、異国の女たちと婚姻して偶像崇拝をし、神様の怒りを買うようになってしまいます😨
ソロモンの死後、息子レハベアムが王になると、ソロモンの臣下だったヤラベアムが北の十部族と投合して自ら王になります。このようにイスラエル王国はレハベアムが治める南ユダと、ヤラベアムが治める北イスラエルに分裂してしまいます😣💦(列王記上11:9-13)
ヤラベアム王以後、後継者たちは一様に偶像崇拝に没頭しました。
特に、オムリの息子アハブはシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻にしてバアルを崇拝するなど、以前のどの王たちよりも、神様の前に悪を行いました😰💦(列王記上16:30-31)
アハブの父であるオムリ王が、在位当時シケム北方に位置した丘を首都と決めたのですが、その地名がまさに“サマリヤ”。すなわち、北イスラエルの首都が“サマリヤ”だったのです。(列王記上16:23-24)
しかし後に、北イスラエルはアッシリアの侵攻を受けて、建国254年目にしてサマリヤは陷落、アッシリア王はイスラエルの民たちをハラ、ゴセン川ハボルのほとりとメデアの町々に強制移住させ、首都であるサマリヤにはバビロン、クタ、アワ、ハマテなど異国の民族たちを移住させました。(列王記下17:6、24)。
その異国の民族たちがサマリヤに残っていたイスラエルの民と結婚することで混血民族ができたのですが、この時からユダヤ人たちはサマリヤ人を異邦人扱いしながら軽蔑するようになりました。
このような経緯があり、イエス様の時代も、サマリヤ人たちはユダヤ人から蔑まれ、お互い交流することはありませんでした。
なので、ユダヤからガリラヤへ行くには、サマリヤを通るのが最短ルートなのですが、サマリヤを迂回するのが一般的だったそうです。
しかし、イエス様はあえてサマリヤを通るルートを選ばれたんですよねー😯❗
これは当時の状況を考えると、画期的なことだったと思います。
この時から、サマリヤへの救いの門が開かれたのでした🌠
人々を罪から救い出し、神様のもとに導くため、ひたすら神様の体になってイエス様は行なわれたんですね。
前置きが長くなりました🙇💦
ここからが本題です!
ある日のこと、イエス様がユダヤを去って、ガリラヤへ行かれる道中、サマリヤのスカルという町に立ち寄られ、旅の疲れを覚えて、ヤコブの井戸のそばで休憩していらっしゃいました。
その時、運命的な出会いが訪れました!!
(ヨハネによる福音書4章に書いてあるよ📖)
昼の十二時ごろ、井戸に水を汲みに来たサマリヤの女の人にイエス様は声をかけました。
水を飲ませて下さい。
彼女は、イエス様の身なりなどからユダヤ人だと察し、驚いて言いました。
あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか?
すかさずイエス様は答えます。
もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう。
いきなり、核心を突く言葉です😶❗
そしてさらに対話が深まっていきます
主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが…
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。
「こんなにも威厳を持って、はっきりと話されるこの方はいったい誰だろう。普通の人ではない…。」と彼女は思ったのではないかと思います。
主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。
イエス様はすべてをご存じでこう言いました。
あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい。
わたしには夫はありません。
夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである。
彼女は自分の心の内まで見通されて衝撃を受けました。
彼女には夫はいたけれども、自分を本当に愛で満足させてくれる人が一人もいなかったんですね。
そして、女の人はそれまで疑問に思っていたことを尋ねました。
主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。
サマリヤ人の先祖たちは、モーセが祝福の山と言ったゲリジム山(申命記11:29)を自分たちの聖山として、その山に神殿を築いていました。
ユダヤ人たちはそのことを忌み嫌い、ゲリジム山の神殿を破壊してしまったそうです。
このような背景があって、彼女は信仰生活に関しても解けない疑問を持っていたのでしょうね。
女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。
自分の問いに対して一つ一つ明確に答えてくださるイエス様…。
「この人は…もしかしたら…!」
彼女はイエス様と話をしているうちに、ユダヤ人たちが待っているそのメシヤがまさにイエス様であることに気づいて分かりました!
わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう。
あなたと話をしているこのわたしが、それである。
ズギューン!🚀🚀🚀
とうとう核心の答えを言っちゃいました!
サマリヤの女の人は聖書も知らないし、何の信仰の職責もなかったのですが、いくつかを尋ねてみて、詰まることなく答えるイエス様を見て、イエス様がメシヤであることをすぐに分かったのでした。
その当時、イエス様について行った弟子たちさえも、イエス様がメシヤだということをはっきり悟っていませんでした。
彼女が、一番最初にイエス様をメシヤだと悟った人になったのです!
早速、走って町へ行き、(悟った人は速い!)
「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません!」
と話したので、町の人々がぞくぞくとイエス様のもとへ集まり、御言葉を聞いて、イエス様をメシヤとして認めるようになりました。
信仰的に不毛の地、異邦だ、異端だと蔑まれていたサマリヤに救いが訪れた奇跡的な日でした🙌
神様の考えと人間の考えは天と地ほども差がありますね。
サマリヤの女の人は、愛においても信仰においても、飢え乾いていた人でした。
しかし、イエス様をメシヤとして迎え、永遠な命に至る水、つまり新しい時代の命の御言葉を得て、神様の乾くことのない愛を悟って、希望で生きるようになりました。
今までは、偶像を拝み、世の中の愛にすがりながら虚しい生を生きていたけど、はっきり信じて愛すべき神様が遣わしたメシヤを愛し、仕え生きるようになりました。
「最高に信仰生活をよくする人」とはどのような人か?
サマリヤ女のように、旧約歴史の御言葉を解けなくても、新約歴史を知らなくても、聖書が解けなくても、神様が今この時代に広げている御心を分かって、神様がその時代に遣わした人を信じ、その人が証する話を聞いてついて行く人が、「最高に信仰生活をよくする人」です。
では、なぜ厳格な律法を守り、教理を熱心に学び、信仰を長く守ってきたユダヤ人たちがイエス様を迎えられず、聖書に対しても無知で、ユダヤ人からも、世の中の人からも蔑まれるような生活を送っていた名もない一人の女性が、最初にイエス様をメシアとして迎えることができたのでしょうか?
それは、旧約の律法を知らず、固定観念がなかったからです。
だから、イエス様は負担なく、あからさまに話すことができました。
ユダヤ人たちは、自分たちが信じて生きてきた教理の障壁のために、古い考え、固定概念を崩すことができず、イエス様を、またイエス様が語られた新しい時代の御言葉を受け入れることができなかったのです。
古い自分の考えや行いを捨てなければ、新しいものを受け入れることはできないです。
神様は、時に従って、遣わした人を通して新しい歴史を始められます。
旧時代が終われば新しい時代の歴史を行われます。
神様が遣わしたイエス様を迎えられず、時を逃してしまったユダヤ人たちは、未だに神様が来ることを嘆きながら待っています。
イエス様の御言葉をもう一度聞いてみましょう。
ヨハネによる福音書4章23節~24節
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。
この言葉の意味は、
イエス様がメシヤだから「私が神霊な人であり真実な人だから、私と礼拝しなさい」ということです。
メシヤと共に神様に栄光を帰して礼拝を捧げよう、という御言葉です。
メシヤを通さずには神様の前に進み出ることはできないのです。
ヨハネによる福音書14章6節
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
メシヤは、信仰と愛において彷徨っていたサマリヤ人のような私たちを、神様へとつないでくださる道です。
根本者、絶対神、創造主の神様を知るようにしてくれ、その方を信じて愛して生きるようにしてくれる「最高の師」です。
知らないことほど無念なことはないです。
完全に知っている人を信じ、神様に仕えて生きる生が、この世で最高に甲斐がある信仰生活、価値がある信仰生活をして生きる人です✨
誰も解くことができなかった個人の問題を解き、民族の問題も解いて、救いを成したイエス様。
今週の御言葉を振り返りながら、
「ああ、やはり、メシヤはただイエス様だけだ!」
と改めて悟りました✨
このことを忘れずに、最後まで信仰を守っていこうと決心するやっちゃんなのでした~😄
今日も最後までお読みいただきありがとうございました!